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東京高等裁判所 昭和61年(う)751号 判決

主文

原判決中、被告人がほか一〇名位と共謀のうえ、S・I方に侵入し、T・Iに対し傷害を負わせた点についての無罪部分及び有罪部分を破棄する。

被告人を懲役四年六月に処する。

原審における未決勾留日数中一一〇〇日を右刑に算入する。

訴訟費用負担〈省略〉

原判決中その余の無罪部分に対する検察官の控訴を棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人戸谷豊外三名(連名)及び被告人がそれぞれ提出した各控訴趣意書、検察官長澤潔が提出した横浜地方検察庁検察官小林幹男作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これらに対する各答弁は検察官松浦恂及び弁護人戸谷豊外三名(連名)がそれぞれ提出した各答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一  弁護人及び被告人の控訴の趣意

一 訴訟手続の法令違反の主張について

各所論は、要するに、原裁判所は、Yの検察官に対する各供述調書を刑訴法三二一条一項二号前段の書面に該当する証拠として採用し、罪となるべき事実の認定に供しているが、右の刑訴法三二一条一項二号前段の規定は被告人の反対尋問を経ていない検察官に対する供述調書(以下、検面調書という。)に証拠能力を認めるもので、憲法三七条二項に違反しており、また、Yは原審において証人として尋問を受けた際、宣誓を拒否したものであるところ、刑訴法三二一条一項二号前段の供述者の死亡等の供述不能の事由は供述者の意思にかかわらない事由であって、証人の宣誓拒否は右の事由に当たらないばかりでなく、Yの各検面調書は、連日にわたる長時間の取り調べによって精神的肉体的に疲労の極にあった同人に対し他の事件の追及をしないという取引ないし利益誘導を行う一方で、家族に対しても心理的圧迫を加えるなどの取り調べにより作成されたもので、右のYの供述には任意性がなく、これに加え、検察官の取り調べが訴追に有利な方向に曲げられる危険がある状況のもとにおいて、共犯者に責任を転嫁して自己の刑責の軽減を図る虞れのある状況にあったYが検察官の積極的な取り調べに応じてした供述を記載したもので、信用性の情況的保障もないから、Yの各検面調書が刑訴法三二一条一項二号前段の書面に当たるとした原判決はその解釈適用を誤っており、加えて、Yの各検面調書は、同人を住居侵入罪という外形的に明白な事案で現行犯逮捕したのに、その管轄外の警視庁本部留置場に勾留したうえ、勾留期間の引き延ばしを図って再再逮捕まで行い、Yが動揺しているのを見越して弁護人の接見要求を意図的に拒否し、捜査機関による自白強要の危険にさらされた状態のもとで行われた取り調べにより作成されたものであって、違法に収集された証拠であるのに、これを否定した原判決は憲法三一条の解釈を誤ったもので、これらの訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで検討するに、原審記録によると、Yは、検察官の請求に基づき昭和五七年一二月一日受刑中の黒羽刑務所において、証人尋問を受けることになり、尋問場所には出頭したが、氏名等の人定事項を黙秘したうえ、宣誓を拒否して全く口を開かず、原裁判所の宣誓拒否に対する制裁の注意、その他の説得にも拘わらず、黙秘を続けたので、原裁判所は、尋問を続行することとして、更に尋問場所以外の場所において黙秘の事情を聴取するとともに、証人尋問に応ずるよう説得し、検察官も同様の説得をしたうえ、翌日、再び尋問場所において、証人尋問を施行しようとしたものの、同様に黙秘を続けたため、原裁判所は、Yが翻意することはないものと判断し、尋問不能としてその施行を中止したこと、そこで、検察官は、昭和五八年一月一四日Yの検面調書八通を刑訴法三二一条一項二号前段の書面として証拠調べの請求をし、原審第六回公判期日において、弁護人らは、右条項の書面に該当しないと主張したが、原裁判所は、右各検面調書を証拠として採用し、そのうち、昭和五六年一一月一〇日付、同月二七日付、同年一二月八日付及び昭和五七年四月二七日付の四通の検面調書を原判示第一の事実(以下、晃和印刷襲撃事件という。)の認定に供していることが明らかである。

しかして、刑訴法三二一条一項二号前段が憲法三七条二項に違反するものでないことは最高裁判所の判例の示すところであって(最高裁判所昭和二七年四月九日大法廷判決・刑集六巻四号五八四頁)、憲法三七条二項が被告人に反対尋問の機会を与えていない証人の供述又はその供述を録取した書面には絶対に証拠能力を認めることができないようにいう所論は採用の限りではなく、この点に関する原判決の説示は正当である。また、刑訴法三二一条一項二号前段に「供述者の死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明若しくは国外にいるため」というのは証人として尋問することができない事由を例示したもので、右の供述不能の事由が供述者の意思にかかわらない場合に限定すべきいわれはなく、現にやむことを得ない事由があって、その供述者を裁判所において尋問することが妨げられる場合には、これがために被告人に反対尋問の機会を与え得ないとしてもなおその供述者の検面調書に証拠能力が付与されるものと解され、事実上の証言拒否にあっても、その供述拒否の決意が堅く、翻意して尋問に応ずることはないものと判断される場合には、当該の供述拒否が立証者側の証人との通謀或は証人に対する教唆等により作為的に行われたことを疑わせる事情がない以上、証拠能力を付与するに妨げないというべきである。これを本件についてみるに、証人Y尋問調書には、前示のとおり宣誓等を拒否した理由について、裁判所の説得の過程で一部供述し、また検察官の説得の際もこれを供述した形跡が窺われるだけで、これが明示されておらず、原審証人湯浅勝喜の供述によると、検察官の取り調べ当時、Yはその所属していた党派組織からの報復を極度に恐れていたというので、これが一つの理由であろうと推測され、所論がいうような被告人に対する敵意によるものと窺われる状況はなく、また、検察官側が作為的に同人に宣誓等を拒否させたものとも認められない。また刑訴法三二一条一項一号前段の書面については、その供述を信用すべき特別の情況が存することがこれを証拠とするための積極的な要件とされていないことは条文上明らかである。したがって、証人の検察官の面前における供述情況及びその供述内容の真実性につき慎重な配慮を要することは当然として、前示のような証人の宣誓等の拒否を刑訴法三二一条一項二号前段の供述不能の事由に当たるとしても、Yの検面調書には信用性の情況的保障がないから証拠能力を付与しえないとの所論は採用できない。

また、原審記録によると、Yは、昭和五六年九月一四日、H方に対する住居侵入事件で現行犯人として小平警察署管内で逮捕され、引き続き警視庁本部留置場に勾留され、同年一〇月三日、右事件につき起訴されるとともに、窃盗、住居侵入、傷害及び有線電気通信法違反事件により再逮捕されて引き続き勾留され、同月二四日、同事件につき起訴され、更に同年一一月二一日別の窃盗事件につき起訴されたもので、所論のように再再逮捕された事実はないが、以上の逮捕勾留中連日のように警察官及び検察官の取り調べを受けたこと、その取り調べは午後一〇時ころに及ぶこともあったこと、Yは、取り調べに対し黙秘を続け、同年一〇月一八日弁護人を解任したころから素直な自供を始めたこと、その間の取り調べにおいて検面調書は約二〇通作成されたことが認められるが、右の逮捕勾留及びその間の捜査官の取り調べには、供述の任意性に疑いを容れるような事情は窺われず、前示Yの検面調書四通が所論のような違法に収集された証拠と目すべき事由を見出すことはできない。

したがって、原判決がYの前示検面調書四通を証拠として採用し、原判示第一の晃和印刷襲撃事件を認定する証拠とした点に所論のような法令違反はないというべきである。

各論旨は理由がない。

二、原判示第一の事実(晃和印刷襲撃事件)に関する事実誤認の主張について

各所論は、原判決は、Yの検面調書四通を唯一の証拠として、被告人とYとの共謀の事実を認定し、晃和印刷襲撃事件について被告人を有罪としたが、右Yの各検面調書は、Yの実行行為に関する部分に対比し被告人との共謀に関する部分は具体性、迫真性がなく、また犯行に関与した者の氏名が匿名のままであって、極めて不自然なものであり、加えて、Yが原審において証人としての宣誓等を拒否したのは、検面調書中の被告人に関する虚偽の供述が明らかになることを恐れたためであって、右各検面調書には信用性がないのに、原判決は、その信用性の判断を誤ってこれを採用し、他方信用性のある被告人の供述を排斥し、事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで検討するに、原判決挙示の関係各証拠によると、原判示第一の事実は、原判示の日時、Yほか一名が同判示の晃和印刷の事務室兼印刷所内に故なく侵入し、共同して同所内にあった印刷機等に生セメントなどを塗り付けるなどの方法でそれらの使用を不能ならしめて数人共同して器物を損壊した事実はもとより、これが被告人との共謀に基づくものであることを十分に認めることができる。

なお、各所論に鑑み、原判決挙示のYの各検面調書の信用性について補足すると、原審記載によれば、前示のとおりYの検面調書は約二〇通作成されたというのであるが、原審において証拠調べを請求されて取り調べられたのは、昭和五六年一〇月二一日付、同月二二日付、同月二四日付、同年一一月一〇日付、同月二七日付、同年一二月八日付、同月九日付、昭和五七年四月二七日付各検面調書合計八通(以下、これらを順次第一ないし第八検面調書という。)だけであり、Yの捜査官に対する供述経過は必ずしも明らかとはいえず、そのうち第一ないし第三の各検面調書は、昭和五七年六月七日起訴にかかる有線電気通信法違反、住居侵入及び傷害の各罪(以下、T・I襲撃事件という。)に関して証拠調べを請求され、第四ないし第八の各検面調書は晃和印刷襲撃事件及びT・I襲撃事件に共通に証拠調べを請求されたものであるところ、第一検面調書はT・I襲撃事件の実行行為の全状況を供述したもの、第二検面調書は右事件の実行行為の分担を定めた状況を補足供述したもの、第三検面調書は右事件の実行前及び実行後の状況を補足供述したもので、T・I襲撃事件起訴前の取り調べにより作成された被疑者調書であり、第四検面調書は窃盗被疑事件名のもとに、Yが革命的労働者協会(以下、革労協という。)に所属した後の活動状況、被告人との関係、革労協内の内部糾弾闘争における内部糾弾に反対する分派(以下、反内糾派という。)に対する対策活動からT・I襲撃事件に至る経緯、その共謀の成立状況を詳細に供述した被疑者調書であり、第五検面調書は晃和印刷襲撃事件の共謀の成立と実行行為を供述した被疑者調書であり、以下は、いずれも晃和印刷襲撃事件起訴後の取り調べにより作成された参考人調書で、第六検面調書は第四検面調書と同様のT・I襲撃事件の共謀の成立状況等の事実をさらに詳細に供述したもの、第七検面調書はT・I襲撃事件の実行行為者らの具体的な準備を詳細に供述したもの、第八検面調書は、Yが実刑判決をうけて受刑中に、晃和印刷襲撃事件とT・I襲撃事件についての被告人の関わりについて供述したもので、原判決が原判示第一の晃和印刷襲撃事件について挙示したものは右の第四、第五、第六及び第八各検面調書である。

前示のとおりYは、昭和五六年九月一四日住居侵入事件で逮捕、同年一〇月三日T・I襲撃事件で再逮捕されたが、捜査官の取り調べには当初から黙秘しており、同月一八日ころから自供するようになったものであるが、関係各証拠によると、Yは、昭和四六年東京大学に入学後日本社会主義青年同盟解放派に入って左翼運動にかかわり、昭和四九年には当時他の党派との衝突に伴う事件で逮捕勾留の後起訴されて有罪判決を受けた経歴があり、被疑者としての捜査官に対する対応の仕方、その取り調べと自己の供述の影響については充分に認識を有していたことが窺われ、前示のとおり黙秘していたのも、一〇年来の左翼活動によって培った信条にしたがったものであると推測され、このような状況にあった被疑者が自供の決意をするには、相当の理由があるものと思われるところ、晃和印刷襲撃事件について詳細に供述した第五検面調書には、その冒頭に、これまで自己が関係した犯行のすべてについて責任をとって清算し、人生の再出発を計りたいと考え、余罪である晃和印刷襲撃事件について進んで正直に述べる旨記載され、しかもなお自己が一人で犯行の責任を負いたいと考え、他の共犯者らの名前を秘する旨記載されており、その後の供述内容も、Y自身がその計画及び実行のすべてに関与していることもあって、関係者の名前を秘している外は、その記憶に忠実にできるだけ正確を期し、推測を交えることなく供述している状況が窺われ、これは同人がその責任を自覚したうえ、良心的にかつ真摯に供述しているものであると認められる。右の供述に当たって共犯者らの名前を秘していることは、長い間活動を共にしてきた者らに対する配慮としてはうなずけないわけではなく、T・I襲撃事件について供述した起訴前の第一、第二及び第三の各検面調書においても被告人の名前はもとより、すべての関係人の名前を秘しているものであって、これを所論のように不自然であるということはできない。すなわち、晃和印刷襲撃事件について供述した第五検面調書及び関係人の名前をあげて供述したその他の各検面調書も十分に信用に値するものといわなければならない。

そして、右第五検面調書によると、Yが革労協に所属し、昭和五五年九月ころから前示の反内糾派に対する対策活動に従事しているうち、昭和五六年二月ないし三月ころ、反内糾派が別の組織作りを準備し、機関紙の発行を計画中であることが判明したため、革労協の指導部の者と相談のうえ、同月初めころ、その印刷所を突き止めたこと、そして機関紙の発行の時期を知るため、他の二名と謀って、同年四月二〇日及び同月二七日の二回原判示の晃和印刷事務室兼印刷所に侵入して前示の機関紙発行の進展状況を調査し、写真撮影などして資料を集め、同日或る喫茶店で前示の指導部の者に会い、右の写真フイルムを渡すとともに調査結果を報告し、機関紙の発行が間近いので、その印刷製本される前にその原稿等を盗み、印刷機を使用不能にする必要があるという意見を述べたところ、指導部の者は一段高い実力行使になるので、この時点で組織決定を出すのは難しいといったが、なお、Yが同月二九日に襲撃したい旨主張したので、右指導部の者もこれに同意し、左の三項目、すなわち、機関紙の原稿等を盗むこと、印刷機などにセメントを流し込んで使用不能にすること、現金や私物には手を出さないことを互いに確認し、Yは、襲撃の資金として右指導部の者から三万円または四万円を受け取り、晃和印刷までの自動車の運転要員の手配を依頼して別れ、二七日のうちに、セメント、木工用ボンドなどを購入して準備し、翌二八日或る喫茶店で指導部の者に会い、右の準備を終わった旨を報告したこと、翌二九日午前三時前ころ、Yほか二名は、指導部の者が手配してくれた運転要員の運転する自動車に乗って晃和印刷の近くまで行き、一名が外で見張りをしているうち、Yと他の一名が原判示第一のとおりの犯行を行い、Yは、同日午前一〇時ころ喫茶店で指導部の者に会って、その際晃和印刷から持ち出した機関紙の創刊号と思われる原稿や写植用のフイルムを右指導部の者に渡したことが認められる。また、右指導部の者という人物については、Yが第四検面調書において供述する革労協に所属したのちのYと被告人との関係及び第五検面調書における名前を秘しての供述にかえて関係者の氏名を明らかにするに至った第六、第八各検面調書によれば、これが被告人であることは疑いなく認められるところであり、所論の指摘に従って検討しても、原判決が被告人の供述の信用性について判断する点に誤りは認められない。すなわち、以上の一連の事実によると、晃和印刷襲撃についての組織決定の有無に拘わらず、被告人は、Yの晃和印刷を襲撃するという積極的な意見に同意したばかりでなく、実行行為者であるYらの晃和印刷内における具体的な行為内容を確認したうえ、その資金を供与するとともに運転要員を手配し、事後においてYらが持ち出した原稿類を受領しているのであるから、被告人にはYらの行為を容認し、これを自己の行為と同様に利用する意思があったことは明らかであり、被告人は、原判示第一の犯行についてYと謀議を遂げた者として共謀共同正犯としての責任を免れないものといわねばならない。したがって、この点について原判決にはなんら事実の誤認はない。

各論旨は理由がない。

三  原判示第二の事実(けん銃及び実包の所持)に関する理由不備の主張について

各所論は、要するに、原判決は、被告人がTと共謀のうえ、けん銃及び実包を所持した旨認定判示したが、共謀が行われた日時、場所が示されておらず、その証拠も挙示されていないし、また、実包についてはTがその存在を認識していたことの証拠すら示されていないので、原判決には審理不尽による事実及び証拠の理由不備の違法がある、というのである。

しかし、原審記録を調査して検討するに、原判決は、被告人とTが共同してけん銃一丁及び実包四発を所持した実行共同正犯の事実を判示していることが明らかであって、犯行の日時及び場所のほかに、共同実行の意思が合致した日時及び場所の事実を殊更に判示する必要はなく、また、原判決は、実包に関するTの共同実行の意思の点を含め共同実行の意思が合致した事実に関する証拠として証人Tに対する受命裁判官の尋問調書二通、司法警察員作成の昭和五七年四月一〇日付捜索差押調書及び同月一三日付検証調書を挙示しているので、理由不備の違法はない。

各論旨は理由がない。

四  原判示第二の事実(けん銃及び実包の所持)に関する事実誤認の主張について

各所論は、要するに、原判決は、証人Tの供述により被告人のけん銃及び実包の所持の事実を認定したが、証人Tの供述は、虚偽の事実と誤った推測に基づく供述であって、被告人が右けん銃等をTの居室に持ち込んだという事実を認めるだけの証拠価値はないのであって、原判決は同証人の供述の信用性の判断を誤って事実を誤認したもので、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調の結果を合わせて検討するに、原判示第二の被告人がTと共謀のうえけん銃一丁及び実包四発を所持した事実は原判決挙示の関係各証拠によって優にこれを認めることができる。

なお、補足するに、原審証人Tに対する尋問調書二通(以下、Tの原審証言という。)並びに原判決挙示の捜索差押調書及び検証調書によると、Tは、昭和五六年一一月一日から原判示第三ノジマ荘二〇三号室を借り受けて居住していたこと、昭和五七年一月二八日から沖縄県に旅行して同年三月二九日帰宅し、その翌日自室の押し入れ内に、黒革ケースに入っている改造けん銃一丁がハンカチにくるまれて置いてあるのを発見したこと、右けん銃はTが沖縄に旅行に行く前には同室内にはなかったものであること、T及び被告人は、同年四月九日別の事件でそれぞれ逮捕され、同日、同室を捜索した警察官によって右けん銃一丁及びこれに装填されていた実包四発が発見押収されたことが認められ、Tの原審証言によると、沖縄に旅行に行く際には自室の入り口の錠を掛けて行ったのに、右けん銃が同室内に持ち込まれていたので、同室の合鍵を持っている被告人がTの沖縄旅行中に持ち込んだものと思い、同年三月三一日かその翌日に被告人が同室に来た際、被告人に対し、以前から持ち込まれて預かっている被告人の荷物をどうにかして欲しいと話した中で、「まあ、あんな物もあるし。」というふうに言って、けん銃のことをそれとなく指摘したところ、被告人は、にやっと笑ったような感じで押し入れの方を向いたが、けん銃はそのままにしていたもので、同室の鍵を持っているのは、自分の外は、被告人だけであるので、けん銃を持ち込んだのは被告人であると思ったというのである。もっとも、Tは、当審における証言において、右原審証言中、自室の合鍵を持っているのは被告人だけであるという点は虚偽であって、当時Tも被告人も指名手配を受けていたので、逮捕された場合に備えて、もう一人の者(以下、第三者という。)に合鍵を預けていた旨供述するに至ったところ、Tの原審及び当審証言によると、Tは前示の逮捕後、本件のけん銃所持の事実についても取り調べを受けて起訴され、有罪の判決を受けたものであり、その検察官の取り調べ及び自己の公判においても、原審証言と同様の供述をしていることが認められるうえ、Tが当審において、合鍵を渡していた第三者のことを前に述べなかった理由として供述するところは、必ずしも合理性があるとはいえないし、かりにTが合鍵を渡した第三者があったとしても、Tは当審証言において、右の合鍵を渡していたという第三者について、Tが沖縄に行く前に第三ノジマ荘に二、三回来たことはあるが、いずれもTと同行したもので、同所に宿泊したことはないなど、右第三者が本件けん銃を持ち込む可能性はない趣旨にも解される事実を供述していること、更に、Tの原審及び当審証言を子細に検討すると、Tは、昭和四九年当時、革労協の下部組織である反帝学生評議会に所属していて、同年二月ころ、警察の指名手配を受けたため、革労協の指導的地位にあって、同じく指名手配を受けていた被告人の指図と援助を受けて居所を転々とし、第三ノジマ荘にも同様にして引っ越したものであって、被告人にはそれらの各居室の合鍵を渡していたので、被告人は、Tの居室に自由に出入りし、しばしば種々の荷物を第三ノジマ荘に自ら運び込み或はTをして運び込ませており、その荷物中には、当時対立関係にあった党派から被告人が襲撃された場合に武器にする物などもあり、被告人以外にはけん銃を自室に持ち込むような人物はいなかったことなどから、前示のけん銃を自室に持ち込んだのは被告人であると思うに至ったものであることが認められ、これらの事実を踏まえて関係各証拠を検討すれば、Tが、原審において、被告人は銃器で武装するほどの組織的な最高指導者であるという感覚はないとか、銃を持つような立場にないとか供述しながらも、なお本件けん銃を持ち込んだのは被告人であると思った旨述べたのは、単に合鍵を渡したのは被告人以外にはないとの理由からばかりではなく、右のような事実関係に基づくものであって、このようなTの推論には十分の合理性があるものといえるし、前示の警察官の捜索当時第三ノジマ荘にT所有のモデルガン及び世界挙銃図鑑があったことからして、本件けん銃もTの所有ではないかという疑いを持ってみても、Tは、原審証言当時本件けん銃所持及び兇器準備集合の罪で有罪判決を受けて受刑中でもあり、Tと被告人の前示のような緊密な関係からすると、被告人に責任を転嫁する理由はないというべきである。

なお、実包について、Tにはその認識がないようにいう所論についてみても、Tの原審証言によると、Tは、本件けん銃を発見した際物騒な物を持ち込んだと感じ、また、これを武器とも表現していること、被告人は前示のとおり第三ノジマ荘に被告人が襲撃された場合に武器にする物をも運びこんでいたことなどからすれば、本件けん銃に実包も装填されているであろうという未必的認識を有していたものと認められる。

また、Tの当審証言によると、被告人は、今までいた所が駄目になったんでしばらくおいてくれと言って、前示のTが沖縄から帰った翌日ころから逮捕の日までの間は、ほぼ毎日のように第三ノジマ荘のTの居室に居たというのであるから、本件けん銃及び実包を共同して所持し続けていたものということができる。

以上のとおりであるから、この点について原判決には事実の誤認はないというべきである。

各論旨は理由がない。

第二  検察官の控訴の趣意

一  昭和五七年六月二九日起訴事実(兇器準備集合、傷害致死事件)についての事実誤認の主張について

所論は、要するに、原判決は、同起訴にかかる兇器準備集合及び傷害致死の事実について、被告人が鉄パイプを所持し、神奈川大学一二号館付近の路上において、被害者に暴行を加えた事実などを目撃したというAの供述は、他の人物を被告人と誤認した可能性があるとして被告人を無罪としたが、Aの目撃は正確で、誤認の可能性はなく、同人は、これについて具体的に、かつ、一貫した供述をしているから信用性も十分認められるので、被告人が右各犯行を犯したことは明らかであり、原判決は、右A供述の信用性の評価を誤って事実を誤認したもので、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

〈中略〉

論旨は理由がない。

二  昭和五七年六月七日起訴事実(有線電気通信法違反、住居侵入及び傷害)についての事実誤認の主張について

所論は、要するに、原判決は、同起訴にかかる有線電気通信法違反、住居侵入及び傷害の事実(以下T・I襲撃事件という。)は、反内糾派対策の一環としての組織活動として同派幹部であるT・Iに対し暴力的制裁を加えるために行われたものであるが、反内糾派対策部門の最高責任者である被告人がその実行部隊の指揮者であるOや反内糾派対策部門の事実上の責任者であるYらにT・I襲撃の実行を指令したと認めることができないので、被告人とT・I襲撃の実行行為者であるO及びYらとの共謀の事実を認定するのは困難であるとして、同事実につき被告人を無罪としたが、原審で取り調べられたYの各検面調書等の関係各証拠によっても、被告人がT・I襲撃の実行部隊の指揮者であるOに対しその実行を指令したことは優に推認することができ、被告人が右O、Y及びUらの実行行為者との共謀に関与したことは明らかであり、原判決は、Yの各検面調書等の証拠の評価を誤って事実を誤認したもので、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで検討するに、本件につき原審で取り調べられた証拠は、各被害事実及び各被害現場の状況に関する証拠を除くと、Yの検面調書八通及び証人U尋問調書であるが、前示のとおりYの各検面調書は、被告人の反対尋問をうけていない点でその信用性については慎重に検討する必要があるところ、そのうち前示第一ないし第三検面調書はY自身を含む一一名の者がT・I襲撃事件の具体的な計画、その実行行為及びそれに関連する行為を行ったことについて供述したもので、YがT・I襲撃事件で起訴される以前の調書であり、右各関与者の名前を秘したうえ、それぞれが分担した役割等を記憶のまま率直に、他の共犯者に責任を転嫁する傾向もなく、真摯に供述していることが窺われ、また、第七検面調書は前記起訴後の参考人調書であるが、ほぼ第一ないし第三各検面調書と同様の事実を前記各関与者の名前を明示して供述したもので、これらの供述内容は十分措信することができるものと認められる。そして、これらYの各検面調書、証人U尋問調書及び原審で取り調べられた関係各証拠によると、昭和五七年六月七日起訴にかかる公訴事実第一の架空電話ケーブル等の電話線を切断して有線電気通信を妨害し、同第二のS・I方居室に故なく侵入し、同第三のT・Iに傷害を負わせたとの右各犯行は、昭和五六年八月中旬ころ、O及びYを含む一一名の者らが共謀のうえ、Oが全体の指揮者となり、Yが補佐して、T・I襲撃の日時、場所、住居侵入による暴行の着手時期、方法及び手順、犯行後の逃走方法、右襲撃のための準備的犯行など詳細な手筈を検討準備したうえ、一一名の役割を定め、若干の実行訓練をしたのち、犯行用資材を調達し、犯行に際し使用する車両を窃取し、通報による発覚を防止するため犯行場所付近で営業している屋台を窃取して撤去し、同月二一日ころから、二、三日その実行の機会を窺ったが、T・Iが自宅に居なかったため着手するに至らず、同月三〇日ころから、再度実行の機会を狙い、同年九月一日午前四時過ぎころ決行することとなり、二名の者がT・Iの居住する都営清水アパート付近の路上等九か所にある電話ケーブル等を切断して有線電気通信を妨害する犯行を実行し、O、Y及び外三名がT・Iが在室するS・I方に台所ガラス窓を破壊して侵入し、T・Iに対し鉄パイプ及びハンマーなどで多数回にわたり暴行を加えて、全治約二か月間を要する傷害を負わせたうえ、付近に待機していた車両に乗って逃走し、残りの四名の者はその際使用した三台の車両の運転手及び安全誘導員役を務めたものであることが認められるが、被告人がこれらの有線電気通信法違反、住居侵入及び傷害の各犯行の実行行為並びにT・I襲撃のための準備的犯行である屋台及び車両の窃盗に加わった事実を認める証拠はないし、また、右の具体的な計画準備に関与した事実を認める証拠もない。

そこで被告人がT・I襲撃事件の各犯行を共謀した事実の有無について前示Yの各検面調書、証人U尋問調書及び当審における事実取調の結果を合わせて検討する。

Yの第四及び第六各検面調書には、前示のT・I襲撃事件事件に至る経緯として、①Yは、昭和四六年四月東京大学入学後社会主義青年同盟に入って左翼運動を始め、革労協の軍事部門で活動し、昭和五二年二月ころから革労協の組織活動を行っているうち、部落解放同盟作成の映画上映ビラに関連して革労協内部の体質を批判糾弾する動きが生じ、その糾弾を推進するグループ(内糾派)とこれに反対するグループ(反内糾派)との内部糾弾闘争が発生し、革学協の中央に所属している内糾派指導者の被告人に依頼されて昭和五五年九月ころから被告人の指導の下に反内糾派対策の組織活動に従事するようになり、同年一〇月にはいわゆる反内糾派対策部門の責任者のような立場になって、反内糾派の組織形態を知るためのオルグ活動や文書入手、活動家の動向調査などを行い、被告人にしばしば会って調査結果の報告や連絡をしていたこと、②右反内糾派対策活動の過程で、昭和五六年三月ころ、反内糾派の別党作りが公然化し始めたので、その分裂行動を阻止するため反内糾派の積極的活動家に制裁を加えるかどうかが問題となり、同年三月中旬ころ反内糾派対策活動のメンバーの中に分裂行動に走ったT・Iに対しまず制裁を加えようとの気運が強くなり、そのころYは、被告人からT・Iの動向調査を始めてみようと言われ、右調査に従事したが、その制裁の内容、形態はいまだ全く具体化していなかったこと、③Yは、同年四月下旬、被告人と相談のうえ、前示の晃和印刷襲撃を行ったこと、④同年五月ころ、ある喫茶店で被告人が革労協軍事部門のリーダーOと会った際、その席にYも同席し、反内糾派活動家に対する対策について話し合って反内糾派活動家に制裁を加えるための準備を整えるという合意をしたこと、⑤同月下旬ころ、被告人、O及びYなどの間で、T・Iを捕捉してら致したうえ、強制的に討論に応じさせて自己批判させようという話が出て、OとYが具体的準備をし、Oを指揮者とした部隊を編成し、同年六月上旬ころ、前示清水アパート付近で待機したが、実行する機会がなく、同月一〇日ころ、被告人、O、Yらの間で、室内に入って妻子の面前で制裁を加えるのはよくないとして、T・Iに対する制裁を断念し、調査活動を打ち切ったこと、⑥同年七月上旬ころ、反内糾派の機関紙が発刊され、独自の党派としての形態を整えてきたので、被告人、O、Y、F及びUなどの間で反内糾派活動家に対しそれまでの制裁とは異なったさらに一段階程度を高めた暴力的制裁を加えなければならないという気運が生じ、右制裁を前提とした調査活動を再開したこと、⑦同月中旬ころから、反内糾派の中でT・Iより政治的影響力の大きい幹部の一人を襲撃するため電話盗聴等でその動向調査を行い、同人の旅行先で襲撃を実行する準備を整えたうえ、Oを指揮者とした前示のT・I襲撃事件の実行に加わったYら部隊員が旅行先に待機したが、右反内糾派幹部が旅行を取りやめたため、同年八月上旬その実行を断念したこと、⑧右の反内糾派の幹部に対する襲撃が実現しなかったことから、その後再び被告人、O、Y、F及びUらの間で今度はT・Iに室内で暴力的制裁を加えるのもやむを得ないという気運が高まり、それぞれの間で具体的な方法について話し合い、YらはT・Iの在室確認の調査を行ったこと、⑨同月一四日ころ、Yは、Oから「T・Iをやってもいいようになった。」というようなことを聞き、T・Iを室内で襲撃することについて組織決定があったことを知り、その日か翌日ころ、Oから、同月一一日の社青同中央委員会会議場の捜索でもT・I襲撃のメモなどは押収されておらず、大丈夫だと知らされ、T・I襲撃が最終的に決まったことがそれぞれ記載され、次に、Yの第八検面調書には、前同様の経緯として、⑩被告人は、反内糾派活動家の調査や分派行動に対する制裁などの活動を行っていたYを直接指導する立場にあった反内糾派対策に関する指導部の一人で、裏の活動である制裁行為については被告人が唯一かつ最高の指導部であったこと、⑪Yは、被告人の指令を受けてT・Iら反内糾派の活動家の動向調査を行い、その結果を被告人に報告し、襲撃部隊の編成についても被告人の助けを借り、T・Iを襲撃する具体的やり方についても相談したうえ実行したこと、⑫晃和印刷襲撃事件の際は被告人と襲撃の具体的方法についても十分打ち合わせをして組織決定はなかったが、被告人が組織上の善後策はとるから実行していいというゴー指令を出したこと、⑬昭和五六年六月中旬ころ、反内糾派の活動家に対し暴力的制裁を加える必要があるという考えのもとにその動向調査など襲撃に必要な準備を整えていたことは被告人を通じて組織の中央にも伝えられていたと思うこと、⑭同年八月上旬ころ、被告人、O、Y、Uの四人が東京都内や神奈川県下の喫茶店で顔を合わせることが何回かあり、その際四人の間でT・Iを襲撃しようということと、その襲撃の程度について話し合ったことがあり、T・Iをやるしかしようがないじゃないかという話をし、全員の意見が一致したこと、⑮前示⑦にいう反内糾派幹部であるS襲撃失敗後、右四人の間では、反内糾派の別党建設を阻止するためには誰か幹部クラスの活動家に対し暴力的制裁を加えなければならないというのが共通の認識になっていて、T・Iが最も襲撃対象とし易いという結論に達し、T・I襲撃については被告人もその必要性を承認していたこと、⑯同月一四日ころ、Oから「T・Iをやってもいいようになったよ。」と言われたので、T・I襲撃は、同年八月一一日の社青同中央常任委員会において反内糾派の活動家に対し暴力的制裁を加えてもよいと言う基本方針に関する何らかの秘密決定がなされ、それを受けて被告人がOに対しT・I襲撃のゴー指令を出したものと予想したことがそれぞれ記載されている。

そこで、Yの以上の供述内容について、これに当審で取り調べたUの検面調書謄本二通(以下、検面調書という。)が裏付けとなって被告人のT・I襲撃事件についての共謀を認めるに足りるかどうかを検討するに、(イ)原審証人U尋問調書(以下、原審証言という。)及びUの検面調書にも、被告人(右検面調書中に乙とあるのは、Uの原審証言によると被告人を指すものであることが明らかである。)が革労協の指導部に属する旨の記載があり、被告人とY及びUの接触は数年にわたりかなり頻繁であったことも証拠上認められるので、Y及びUが被告人の革労協の党組織における正確な地位ないし身分は知らないとしても、被告人が中央組織に属し、指導的地位にあったという両名の供述は間違いないところであり、また、Uの原審証言及び検面調書によると、同人も被告人に指示されて反内糾派対策活動に従事したというのであり、Y及びUは革労協の被告人以外の指導者との接触はなかったことが窺われるので、被告人は、革労協のいわゆる主流派である内糾派の幹部として反内糾派対策活動に従事するY及びUらを直接指導する組織上の地位にあり、Y及びUらが行った反内糾派の活動家の動向調査結果はすべて被告人に報告されていたことが認められ、(ロ)T・I襲撃事件は、党内対立の結果分派行動に出て別の党を組織しようとした反内糾派の幹部に対し、その別党建設を阻止するため、制裁を加えようという気運が主流派である内糾派の中に強まり、当初は反内糾派の積極的活動家であるT・Iをら致して自己批判を迫る制裁活動を準備しながら、その機を逸してこれを断念するうちに、反内糾派が独自の党派としての形態を整えてきたので、一種の危機感と報復的感情を伴って制裁の内容が暴行、傷害をも含む暴力的制裁に発展増長し、Sに対する暴力的制裁を準備してこれが不成功に終わったため、その代わりとして、かねて動向調査のうえ襲撃を計画したことのあるT・Iを再び襲撃の対象とすることにして計画されて実行されたもので、この点はUも原審証言及び検面調書中で、神奈川県内での反内糾派対策を収束したUが被告人から反内糾派幹部に対する調査の継続を指示され、Sを暴力的制裁の対象とする意見を述べて、Yらと共に動向調査活動をするようになった以降の経過として同旨の供述をしているので、結局T・I襲撃事件は被告人を指導者として行っていた革労協主流派の組織活動の一環として敢行されたものであることが認められ、(ハ)S襲撃について、Uの昭和五七年四月二〇日付検面調書にも、被告人に関しては、昭和五六年七月中旬ころ、指導部の乙すなわち被告人に対しSに暴力的制裁を加えるのがいいのではないかと意見具申した際、被告人は、党内の反発を招く恐れがあるので、Sに暴力的制裁を加えるかどうかについては、別の機関で調整してみると言っていたという記載があり、Yの第六検面調書並びにUの原審証言及び検面調書によると、Y及びUらのSに関する動向調査結果は被告人に報告されていたことが明らかで、被告人が右の調査結果により前示の「別の機関」に諮った結果を受けて、OらがS襲撃の具体的準備を行ったものと認められ、(ニ)前示⑧及び⑭の供述記載のうち、S襲撃が不成功に終わり、これに代って再びT・Iに対し暴力的制裁を加えるのもやむを得ないという気運が高まり、同年八月上旬ころ、喫茶店で被告人とO、Y及びUらが会った際、T・I襲撃の話がでて、T・Iをやるしかないという意見が一致したという点は、Uも検面調書において、同年八月上旬ころ、被告人が喫茶店で、T・Iをやるしかないという趣旨のことを言った旨供述しているので、右の被告人とO、Y及びUの会合の事実は否定できず、少なくとも被告人はこの段階で反内糾派対策活動の進展としてT・Iに対し暴力的制裁を加えることを承認していたものと認められ、(ホ)本件のT・I襲撃は革労協の軍事部門のリーダーであるOを指揮者とする実行部隊によって現実に敢行されており、これが組織的にも影響の大きい行動で、Yの第七検面調書によると数十万円の実行費用を要した規模の大きな行動であったことを併せ考えると、少なくともOがT・I襲撃についての組織中央部の承認を得たものと認められ、T・I襲撃が中央組織に属する被告人において指導者となって進めてきた一連の反内糾派対策活動の進展した行動であり、T・Iの動向調査の結果も被告人に集められていたことからして、その中央組織の承認決定の形成については被告人が重要な役割を果たし、右承認の連絡についても、それまでO及びYら実行部隊としばしば接触のあった被告人が関与しているものと推認することができ、この点に関連して、Uの昭和五七年四月二八日付検面調書には、八月一一日山梨県下で組織会議がもたれた際、警視庁の捜索を受け、T・Iに対する暴力的制裁を見合わせていたが、八月中旬ころ、東京都内か神奈川県内の喫茶店で被告人がT・I関係のメモについては警察に見られていないから大丈夫だ、計画は続行するという趣旨のことを言った旨Yの前示⑨のOから「T・Iをやってもいいようになった。」というようなことを聞いたとの供述記載と一部符合する記載があり、右Uの供述記載のうち、被告人が計画続行を告げたという部分はYの検面調書にもない事実であって、革労協組織に対する捜索に関連する特異な事実として供述したもので採用に値し、これはT・I襲撃を実行するという被告人の意思を端的に現した言葉であるといわざるを得ない。

以上のような被告人の革労協における組織上の地位、反内糾派対策活動における指導的役割、T・I襲撃の性質及びその経緯、O、Y及びUら実行行為者らとの関係及び接触状況等の事実からすると、被告人はOらT・I襲撃の実行部隊の行為を認識し、これを自己の行為として利用する意思を有していたものといわざるを得ず、前示のS・I方に侵入してT・Iに傷害を負わせた犯行については、Oらとの間に共同実行の意思を形成し、共謀を遂げていたものと認めるのが相当である。ただ、架空電話ケーブルなどの電話線合計一五本及び公衆電話の受話器コード三本の切断により有線電気通信を妨害したとの公訴事実については、S・I方のある前示清水アパート以外の場所の右電話線及び受話器コードを切断してT・I襲撃の犯行の通報を阻止するという犯行方法についてまで被告人がこれを知っていた事実は認められないので、右公訴事実について被告人が共同実行の意思を有していたものと認定することはできないところである。

したがって、原判決が昭和五七年六月七日起訴の公訴事実のうち、住居侵入及び傷害の点につき被告人がO及びYらとの間で共謀を遂げたと認めるのは困難であるとしたのは事実を誤認したもので、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

論旨は右の限度で理由がある。

そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決中、被告人がほか一〇名位と共謀のうえ、S・I方に侵入し、T・Iに対し傷害を負わせた点についての無罪部分を破棄し、右の部分と原判決中の有罪部分とは刑法四五条前段の併合罪の関係に立つので、併合罪の処理をしたうえ一個の有期懲役刑に処すべきであるから、この部分を併せて破棄し、刑訴法四〇〇条但書に従い当裁判所において更に次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

第一及び第二(原判決が認定した事実第一及び第二)

第三(当裁判所が新たに認定する事実)

被告人は、O及びY外九名位と共謀のうえ、昭和五六年九月一日午前四時一五分ころ、T・I(当時三二年)に傷害を負わせる目的で、東京都目黒区目黒本町一丁目一四番一号所在の都営清水第二アパート五階五〇七号室S・I方の台所窓ガラスを破壊するなどして同室内に故なく侵入し、そのころ、同所において、T・Iに対し鉄パイプ及びハンマーなどで同人の身体各所を多数回にわたり殴打する暴行を加え、よって、同人に全治約二か月間を要する胸部・腰部・背部挫傷、右第二中手骨・左上腕骨・左下腿腓骨骨折、左上腕・左下腿・右下腿挫創などの傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の原判示第一の所為のうち、建造物侵入の点は刑法一三〇条前段、六〇条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、数人共同して器物を損壊した点は暴力行為等処罰に関する法律一条、刑法二六一条、六〇条、罰金等臨時措置法三条一項二号に、同第二の所為のうち、改造けん銃所持の点は銃砲刀剣類所持等取締法三一条の二第一号、三条一項、刑法六〇条に、実包所持の点は昭和六一年法律第五四号附則六条により同法律による改正前の火薬類取締法五九条二号、同法二一条、刑法六〇条に、当裁判所が新たに判示する第三の所為のうち、住居侵入の点は刑法一三〇条前段、六〇条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、傷害の点は刑法二〇四条、六〇条、罰金等臨時措置法三条一項一号にそれぞれ該当するところ、右第一の建造物侵入と数人共同による器物損壊との間、第三の住居侵入と傷害との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので、刑法五四条一項後段、一〇条により一罪として、第一については犯情の重い数人共同による器物損壊を内容とする暴力行為等処罰に関する法律違反の罪の刑で、第三については重い傷害の罪の刑で、右第二の罪は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い改造けん銃所持を内容とする銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪の刑でそれぞれ処断することとし、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により刑及び犯情の最も重い第三の傷害罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役四年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一一〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用のうち主文第四項掲記の証人に支給した分については刑訴法一八一条一項本文を適用して被告人に負担させることとする。

また、原判決中その余の無罪部分に対する検察官の控訴は刑訴法三九六条によりこれを棄却することとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官高木典雄 裁判官福嶋登 裁判官田中亮一)

《参考・原審判決抄》

(事実認定の理由)

第一 晃和印刷事件(判示第一の建造物侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反の事実)について

一 被告人及び弁護人は、被告人は、本件につき、共犯者Yらと共謀した事実はなく、無罪であると主張する。

ところで、本件については、被告人がYらと共謀した事実を認めるに足りる証拠としては、実行行為をした共犯者であるYの検察官に対する昭和五六年一一月一〇日付、同年一一月二七日付、同年一二月八日付、昭和五七年四月二七日付各供述調書謄本が存するだけである。弁護人は、Yの右各検面調書の証拠能力及び信用性を争うところ、本件は、革労協の組織内部における分裂に基因する対立抗争の一環として、Yらによって後記のT・I襲撃事件とともに実行されたものであって、右Yの昭和五六年一一月一〇日付、同年一二月八日付、昭和五七年四月二七日付各検面調書においては、本件及びT・I襲撃事件に至る経緯、ことに被告人とYとの共謀状況が一体的に供述されており、またT・I襲撃事件に関するその余のYの検面調書(昭和五六年一〇月二一日付、同年一〇月二二日付、同年一〇月二四日付、同年一二月九日付各謄本)についても、弁護人は、その証拠能力及び信用性を争っているので、以上のYの各検面調書の証拠能力及び信用性について、便宜ここで一括して検討しておくことにする。

二 まず、Yの前記各検面調書の証拠能力について検討する。

証人Yに対する併合前の東京地方裁判所刑事第一五部の証人尋問調書二通(尋問期日昭和五七年一二月一日及び同月二日、尋問場所黒羽刑務所、被告人は尋問に立会)によると、Yは、昭和五七年一二月一日の尋問期日に証人として出頭した際、裁判長の人定質問に対し黙秘し、宣誓を拒否したため、翌二日に尋問期日を続行し、この間、同裁判所、検察官において、同証人に対し、宣誓及び証言をするようにとの再三の説得を試みたが、同証人は、同月二日の尋問期日に出頭した際にも、前同様、裁判長の人定質問に対し黙秘し、宣誓を拒否して全然応じようとせず、宣誓及び証言拒否の意思が強固なものであったことが認められる。

弁護人は、右のように宣誓及び証言を拒否したYの前記各検面調書の証拠能力について、(イ)刑訴法三二一条一項二号は憲法三七条二項に違反して無効であるうえ、宣誓拒否の場合は、刑訴法三二一条一項二号前段の規定する「死亡」等の事由とは実質的にも著しく異なり、同号前段に該当しないこと、(ロ)同号前段に該当するとしても、同号後段と対比し、同号前段の場合にも信用性の情況的保障が要件とされると解すべきところ、Yは、証人尋問に際し、証言だけでなく、宣誓をも拒否しているうえ、同人は、共犯者とされている者であって、連日の長時間にわたる取調べ、家族に対する圧力による心理的圧迫、捜査機関の利益誘導による取引という状況において右各検面調書が作成されたものであるから、右各検面調書には信用性の情況的保障は存しないこと、(ハ)Yの右各検面調書は、同人が現行犯人として逮捕された住居侵入罪は外形的に明白な事案であるのに、逮捕場所の管轄外である警視庁本部留置場に同人を勾留し続け、不当に長い勾留を利用し、この間捜査機関は同人と弁護士との接見を意図的に妨害し、その結果作成されたものであるから違法収集証拠であること、を理由にその証拠能力はないと主張する。

しかし、証人として尋問することを妨げるやむを得ない事情がある場合には、被告人に反対尋問の機会を与え得ない者の供述を録取した書面を絶対に証拠とすることが許されないものでないことは極めて明らかである(最高裁判所昭和二七年四月九日大法廷判決、刑集六巻四号五八四頁参照)から、刑訴法三二一条一項二号の規定が憲法三七条二項に違反するという弁護人の前記主張は失当である。そして、刑訴三二一条一項二号前段の規定は、被告人が全く反対尋問をすることができない例外的な場合であるから、その解釈、適用に慎重を期すべきことはいうまでもないが、しかし、刑訴法が実体的真実の発見という刑事訴訟本来の目的を達するため、同条項を設けた趣旨にかんがみると、同条一項二号前段が供述することができない原因として列挙している事由は、絶対的・限定的なものではなく、例示的なものであるから、これと同程度の事由が存する場合もこれに含まれると解するのが相当である。本件にあたっては、どんなに手を尽してもYから証言の得られる見込みはなく、これは、被告人に反対尋問の機会を与えることができないことにおいては、同号前段にいう供述者が「精神若しくは身体の故障のため…供述することができない」場合と何ら選ぶところがないから、Yの前記各検面調書は刑訴法三二一条一項二号前段の書面に該当し、証拠能力を有すると解せられる。

しかして、Yの前記各検面調書の内容は、同人が所属していた革労協組織内部における分裂に基因する本件及びT・I襲撃事件について、Y自身及び同党派組織に所属していた者らの不利益な事実を供述したものであるところ、同人の昭和五六年一一月二七日付検面調書には、「これまで自分の関係してきた犯行の全てについて清算し、責任をとったうえで人生の再出発を図りたいと考え、晃和印刷襲撃事件についても、自分から進んで正直に申し上げます。」旨の供述記載があり、また参考人調書として作成された同年一二月八日付検面調書には、参考人としての事情聴取であり、取調べを拒否でき、また既に起訴された事実に関係する部分については黙秘権がある旨告知され、「そのことはよくわかりました。」と述べたうえで、「私は過去一〇年間の自分の活動に終止符を打ち、すでに組織からも離れ、人生の再スタートを切る決意を固めておりますので、自分の意思で、知っていることを正直に進んで申し上げます。」旨の供述記載があることが認められること、Yの取調べに当たり、昭和五六年一〇月二一日付、同年一〇月二二日付、同年一〇月二四日付、同年一一月一〇日付、同年一一月二七日付、同年一二月八日付、同年一二月九日付各検面調書を作成した検察官湯浅勝喜(第四回公判調書中の同証人の供述部分)によると、Yは、当初いわゆる完全黙秘をしていたものの、同人の従前の党派活動に対する清算、反省から、組織的な報復を極度に心配しながらも、進んで同人の記憶どおりの供述をなし、同検察官の読み聞けにより、供述内容をゆっくりと確実に確認したうえ署名指印したことが認められ、また昭和五七年四月二七日付検面調書を作成した検察官松浦恂(第五回公判調書中の同証人の供述部分)によると、Yは、当時、黒羽刑務所に受刑中であったが、取調べに際し同検察官から、被告人が逮捕され、そのため再度事情聴取する旨告げられ、Yは同検察官に対し、「被告人の公判は私が支えることになるのですか。」と質問し、同検察官から「君一人で全部支えるということではないけれども、君の供述が極めて重要である。」と告げられ、これを了知諒解したうえで取調べに応じ、供述を渋ることもなく任意に供述をなし、読み聞けを受けて署名指印したことが認められることに照らすと、Yの前記各検面調書は、その供述の任意性に疑いを容れるような事情は存しないし、その信用性の保障にも欠けるところはない。

そして、湯浅検察官の証言によると、同検察官の取調べ当時、Yは、昭和五六年九月一四日現行犯人として逮捕された住居侵入罪につき同年一〇月三日付けで起訴され、同日付でT・I襲撃事件により令状逮捕され、同事件につき同月二四日付で起訴され、その後同事件に関連する屋台窃盗事件で同年一一月二〇日ころ追起訴され、さらに本件の晃和印刷事件で同年一二月二四、五日ころ追起訴されるという経過にあったのであって、不当に長い勾留ということはできないし、また、同年一〇月一八日ころYがその弁護人を解任するまでの間、同人は弁護人とも頻繁に接見し、勾留理由開示裁判もなされたのであって、捜査機関による意図的な接見妨害がなされた事情は到底認められないところである。

以上のしだいで、弁護人の前記主張は理由がなく、Yの前記各検面調書は、刑訴法三二一条一項二号前段の書面として証拠能力を具備するものと解せられる。

三 次に、Yの前記各検面調書の信用性について検討する。

Yは、前記各検面調書において、革労協組織内部でいわゆる内部糾弾闘争が発生し、内糾派グループと反内糾派グループの対立が発展拡大し、反内糾派グループによる分派組織の結成へと発展していった状況、そのため、内糾派に所属していたYは、革労協の中央に所属し、内糾派の指導者である被告人を最高責任者とする非公然の反内糾派対策活動の専従者となり、その事実上の責任者として、被告人の指導の下に、反内糾派の分派活動を阻止するため、反内糾派グループ員の動向調査、同派の文書等の入手活動等に従事し、さらにその一環として、Yらにおいて、本件及びT・I襲撃事件を実行した状況等について供述しているところ、革労協組織内部において内糾派と反内糾派に分裂、対立していった状況、本件及びT・I襲撃事件につきYらが実行行為をした状況に関しては、被告人、弁護人も争うところはなく、この点は、T・I襲撃事件の実行行為に関与したUの証言(同証人に対する受命裁判官の尋問調書)によっても裏付けられていること、Yは、前記のとおり、その所属していた党派組織から離脱し、人生の再出発を図る決意を固めて供述をし、しかも、その供述する事実は、同人が所属していた党派組織の内部分裂に基因する事実に関するものであって、外部からは容易に窺い知ることができないものであるうえ、同人及び同人の直接の指導者であった被告人ら同党派組織に所属する者らにとって極めて不利益な事実であること、Yは、被告人が、反内糾派対策活動部門の最高責任者として、反内糾派対策活動につき指導等していたことは一貫して供述し、ことに、同人としては本件及びT・I襲撃事件により受刑中の身でありながら、被告人が逮捕され、かつ、被告人の裁判では被告人にとって極めて不利益な証拠となることを十分知悉したうえで、なおもこの点に関する供述を維持していること、そして、被告人が、Yの供述するように、反内糾派対策活動の指導者で最高責任者の地位にあったものであることは、Uが、昭和五六年四月二一日以降、同人が神奈川大学における反内糾派グループの動向掌握や同派の活動を阻止する非公然活動に専従するようになってから、革労協中央に属する被告人と接触して、被告人から、党内闘争全般にわたる情報を聞くとともに、党内闘争全般にわたる党の基本的な決定方針について指示を受け、一方Uは被告人に対し、神奈川大学における反内糾派の動向、経過について報告していた旨証言していることに照らしても十分支持されていることに徴し、Yの前記各検面調書の信用性は肯認することができる。

もっとも、Yは前記のように証人尋問に際しては宣誓及び証言を拒否したのであるが、同人は、前記各検面調書で、同人が所属していた党派組織から離脱し、人生の再出発を図る決意を抱いて同人及び同党派に所属している被告人らに不利益な事実を供述したものであり、Yとしては、被告人が立会している証人尋問期日においては、同党派組織からの報復、制裁に対する懸念、同人の直接の指導者であった被告人に対する気兼ね、後ろめたさ等から右のような対応に出たものと窺われるのであって、このことから、Yの前記各検面調書の信用性が揺らぐものではない。

以上のとおり、Yの前記各検面調書は十分信用することができる。

四 これに対し、被告人は、第三一回公判において、被告人が革労協の中央に所属していることや反内糾派対策部門の存在自体直接には聞いたことがなく、反内糾派対策部門の責任者であることを否定するが、しかし、この点は前記のUの証言に反している。また被告人は、昭和五五年一二月ころからYと接触するようになり、ことに昭和五六年一月から同年四月までの間は一〇日に一回位の割合で東京都内等の喫茶店で同人と頻繁に接触し、その後は、同年五月初めころ、同月下旬ころ、同年六月下旬ころ、同年七月二〇日ころに各一回同人と接触していたというのであるが、それは、内部糾弾闘争の受け止め方をめぐり動揺していた同人と討論をしていたというのである。しかし、被告人は、他方では、同年一月から同年四月ころの間、Yから、同人は脱党グループの動向調査活動に従事していると聞いていた旨供述しており、この点はYの前記検面調書の供述と符合しているのであり、そうすると、非公然の反内糾派対策活動に従事しているYが、そのころ、そもそも内部糾弾闘争の受け止め方をめぐって動揺していたというのは理解し難いところである。しかも、被告人は、本件晃和印刷が存在することは、同年四月中旬ころには聞知していたと供述しているところ、Yの前記検面調書によると、本件晃和印刷は電話帳等には掲載されてなく、同人が調査活動の結果、同年三月上旬ころ、その所在をようやくにして突き止めたのであり、同人らは、同年四月二〇日午前二時ころ、同印刷に侵入したが、その際には反内糾派の文章等を発見することができず、同月二七日午前一時か二時ころ、再度同印刷に侵入してそこで初めて反内糾派の文章等を発見するに至ったことが認められるのであって、被告人が、一方で反内糾派対策部門の責任者であることを否定し、これとは無関係であるかのような供述をしながら、他方では、本件晃和印刷で未だ反内糾派の文章等が発見もされていない早期の時点から、既に同印刷の存在を聞知していたというのは、甚だ不自然の感を免れないのである。また被告人は、YがT・I襲撃の実行部隊に加っていたことを聞き、前記のようにYが動揺していたメンバーであったこともあって、なぜ同人が右部隊に加っていたのかという感想を抱いたというのであるが、Yの前記検面調書によると、同人らはS・I方に乱入後、T・Iを殴打するに際し、Yが、まず、人違いでないかT・Iの顔を確認したことが認められ、Yは右部隊において積極的、主導的役割りを果たしていることに照らしても、被告人の供述するところは不自然にすぎるというほかない。

以上のように、被告人が、本件及びT・I襲撃事件に関連して公判廷で供述するところは、Uの証言に反するのみならず、甚だ不自然であって、到底措信できない。

五 そこで、本件晃和印刷事件について、被告人が、Yらとの間に共謀があったか否かについて検討する。

前掲関係証拠、ことにYの前記昭和五六年一一月一〇日付、同年一一月二七日付、同年一二月八日付、昭和五七年四月二七日付各検面調書謄本によると、以下のような事実が認められる。すなわち、

(1) 革労協組織内部においては、昭和五三年秋ころより、目黒地区上映実行委員会が部落解放同盟の製作した映画を上映した際、差別的な内容を含むビラを出したとしてこれを指摘糾弾したことを契機として、これを生み出した党組織の体質をめぐり、いわゆる内部糾弾闘争が発生し、右闘争を推進するいわゆる内糾派グループと、これに反対するいわゆる反内糾派グループとの対立が発展拡大し、しだいに反内糾派グループによる分派組織結成へと進展していったこと、

(2) Yは、革労協の組織活動に従事し、内糾派に属していたが、昭和五五年九月ころから、革労協中央に所属し、内糾派指導者である被告人を最高責任者とする非公然の反内糾派対策部門の専従者となり、被告人の指導の下に、事実上の責任者として、反内糾派の分派活動を妨害、阻止するため、同派グループ員の動向調査、文章等の入手活動等に従事していたこと、

(3) 昭和五六年三月ころ、反内糾派の別党結成が明確化するに従い、Yは被告人の了解を得ながら、同派の機関誌発刊を阻止するため、同派が利用している本件晃和印刷の所在場所を突き止めたうえ、反内糾派対策部門のメンバー二名とともに、同年四月二〇日午前二時ころ、晃和印刷内に侵入し、反内糾派の機関誌の原稿等を探したが発見するに至らず、さらに同月二七日午前一時か二時ころ、再度晃和印刷内に侵入して探した結果、反内糾派の「六・一五労働者実行委員会」のパンフレットの印刷が開始されており、かつ、「革労協全国再建連絡会議」の招請状の原稿を発見し、これらの内容を確認し、写真撮影するなどしたこと、

(4) そこで同日(四月二七日)、Yは被告人と喫茶店で合い、被告人に対し、右調査活動の結果を報告し、撮影した写真フイルムを被告人に手渡したうえ、反内糾派の機関誌発刊が目前に迫っていることから、これを阻止するためには、同月二九日早朝に、晃和印刷を襲撃し、右機関誌印刷完了前にその原稿や原版フイルムを盗み出し、かつ、印刷機等にセメントを流し込むなどして使用不能にさせることが必要である旨被告人に提案したところ、被告人は、晃和印刷襲撃が従前の調査活動とは異なり、一段階程度の高い実力使行になることから、右時点で組織決定を出すことは難しいと答えたものの、Yが、時機を失するとして四月二九日に晃和印刷を襲撃する必要があることを強く主張したため、被告人は、Yの右提案に同意し、組織的な善後策は被告人において講じることとして、Yに対し、晃和印刷襲撃の実行を命じ、その資金として四万円位を同人に手渡したほか、同人の要請により、右襲撃に使用する自動車の運転要員一名の配置を約したこと、

(5) Yは、その後同日中に、被告人から受取った右資金で、速乾性セメント約一〇キログラム、チユーブ入り木工用ボンド二本等を購入準備し、翌同月二八日、被告人から配置された自動車運転要員ら三名と落ち合い、右三名とともに自動車に同乗して同月二九日午前三時ころ晃和印刷に赴き、運転要員一名を同車内に残し、また一名を見張りに立たせ、Yほか一名において、同印刷一階窓から同印刷所内に侵入したうえ、同所内で発見した反内糾派機関誌「プロレタリア革命」創刊号の原稿、原版フイルム等を準備してきた布袋に入れて見張り要員に手渡して盗み出し、次いで、ほか一名と共同して、印刷機二台のインクローラー部分等に生セメントを塗りつけ、エアホース、電源コード等をカッターで切断し、写植機一台のレンズ部分、和文タイプライターの印字部分等にボンドとパテを塗りつけるなどして逃走したこと、

(6) Yは、同日午前一〇時ころ、喫茶店で被告人と会い、晃和印刷から盗み出した右機関誌の原稿等を被告人に手渡したこと、

等の事実が認められる。

以上の事実関係によると、内糾派の指導者で反内糾派対策部門の最高責任者である被告人の指導下に、Yは同部門の事実上の責任者として反内糾派対策活動に専従し、被告人の了解を得ながら、反内糾派の機関誌発刊を阻止するため、晃和印刷に対する調査活動を行い、同年四月二七日、被告人に対し、同日未明に行った晃和印刷に対する調査活動の結果を報告し、目前に迫っている反内糾派の機関誌発刊を阻止するには、同月二九日早朝に晃和印刷を襲撃し、印刷機等にセメントを流し込むなどして使用不能にさせること等が必要である旨提案し、これを受けて被告人は、右時点で組織決定を出すことは難しいといったんは答えたものの、結局は、時機を失するとするYの主張を了承して同人の右提案に同意し、Yに対し、晃和印刷襲撃の実行を命じたのであるから、本件晃和印刷襲撃についてYと共謀を遂げたことは明らかである。してみると、被告人は、本件晃和印刷襲撃につき共謀共同正犯としての刑責を免れないものといわなければならない。

(無罪部分の理由)

第二 T・I襲撃事件(昭和五七年六月七日付起訴、有線電気通信法違反、住居侵入、傷害被告事件)

一 公訴事実の要旨

「被告人は、ほか一〇名位と共謀のうえ、

第一 昭和五六年九月一日午前四時すぎころ、別紙一覧表記載のとおり、東京都目黒区目黒本町一丁目一四番一号先路上ほか八か所において、日本電信電話公社目黒電報電話局局長塩井只雄管理にかかる放三支線四七号電柱に設置された架空電話ケーブルなどの電話線合計一五本(合計一二四〇回線)及び公衆電話の受話器コード三本を刃物ようのものを用いて切断し、よって、有線電気通信設備を損壊して有線電気通信を妨害し、

第二 前同日午前四時一五分ころ、T・I(当三二年)に傷害を負わせる目的で、同区目黒本町一丁目一四番一号都営清水第二アパート五階五〇七号室S・I方居室の台所窓ガラスを破壊するなどして同室内に乱入し、もって故なく他人の住居に侵入し、

第三 前同日同時刻ころ、右S・I方において、右T・Iに対し、その身体を所携の鉄パイプ、ハンマーなどをもって多数回にわたり殴打するなどの暴行を加え、よって、同人に全治約二か月間を要する胸部・腰部・背部挫傷、右第二中手骨・右上腕骨・左下腿腓骨骨折、左上腕・左下腿・右下腿挫創などの傷害を負わせ

たものである。」

二 Yの検面調書が証拠能力を具備し、かつ、信用するに十分なものであることは、前に晃和印刷事件に関連して検討したとおりである。

しかして、Yの昭和五六年一〇月二一日付、同年一〇月二二日付、同年一〇月二四日付、同年一一月一〇日付、同年一二月八日付、同年一二月九日付、昭和五七年四月二七日付各検面調書謄本のほか取調済の関係各証拠によると、右公訴事実のとおり、昭和五六年九月一日午前四時すぎころから、革労協軍事部門のリーダOを指揮者とするYら合計一一名で編成されたT・I襲撃部隊は、まず電話線切断部隊員において、T・Iの居住する都営清水アパート周辺の架空電話ケーブル等の電話線を切断したこと、ついでO、Yら五名の実行部隊員において、ストッキングで覆面をし、鉄パイプ、ハンマー、バール等を所持して同アパート五階に赴き、同アパート五階五〇七号室のS・I方以外の五階八室の各ドアを外側から心張り棒で閉鎖し、五階各室への電話引込線を切断したうえ、S・I方台所の窓ガラスを鉄パイプで破壊するなどして、同人方居室内に乱入し、T・Iの手、足、腰等その身体をこもごも鉄パイプ、ハンマー、バール等で多数回にわたり乱打し、同人に対し公訴事実記載のとおりの傷害を負わせたことが認められ、被告人は、O、Yらが敢行した右T・I襲撃の実行行為それ自体には、直接これを分担したり関与するなどしていないことが明らかである。

三 そこで、右犯行につき、被告人が、O、Yらとの間に共謀があったか否かについて、Yの右各検面調書に基づいて検討する。

T・I襲撃に至る経過をみるに、

(1) 前記のとおり、革労協の組織内部においては、内部糾弾闘争が発生し、内糾派と反内糾派の対立が発展拡大し、反内糾派による別党結成へと進展していたところ、革命協中央に所属し、内糾派の指導者であり、反内糾派対策部門の最高責任者である被告人は、昭和五六年三月ころ、同対策部門の事実上の責任者であるYに対し、反内糾派幹部のT・Iに対し制裁を加えるべく、同人の動向調査を命じる一方、同年五月ころには、革労協軍事部門のリーダーOをYに引き合わせ、軍事部門の協力も得て反内糾派活動家に対し制裁を加えることとし、同月下旬ころには、被告人、O、Yらの間で、T・Iを他所へ拉致して討論により自己批判を迫る計画を立てて準備するなどしたが、S・I方居室内で同人を捕捉する以外に方法はなく、妻子の面前で同人に制裁を加えることになることから、同年六月一〇日ころ、被告人らは、T・Iに対し制裁を加えることは一時断念したこと、

(2) しかし、その後、反内糾派が同年六月一四日ころに独自の集会と政治闘争を強行し、また同年七月上旬ころには、機関誌「プロレタリア革命」創刊号を発刊するなどして、独自党派としての形態を確立してきたことから、そのころより、被告人、O、Yらの間では、反内糾派活動家に対し、従前の制裁とは一段と程度を高めた、身体に暴力を加えて傷害を負わせるという暴力的制裁を加える必要があるとの気運が生じ、数名の反内糾派幹部を暴力的制裁の対象にあげ、その動向調査を開始したこと、

(3) そして、反内糾派幹部Sをその対象として、同年八月初めころ、同人の旅行先で同人を襲撃することにし、Yらは、Sの旅行先に赴き、S襲撃の手筈を整えたが、同人が旅行を取り止めたことから、S襲撃計画は失敗に終わったこと、

(4) そこで、同月上旬ころ、被告人、O、Yらの間では、再びT・Iが対象にあがり、同人方居室内で、同人に対し暴力的制裁を加えることもやむを得ないとの気運が高まり、T・I襲撃について、その具体的方法等を話し合い、Yは、T・I襲撃のための調査活動を開始したこと、

(5) その後同月一四、五日ころに至り、Yは、Oから「T・Iをやってもいいようになった。」と告げられ、Yとしては、同月一一日に開催された社青同中央常任委員会でT・I襲撃につき組織決定がなされ、これを受けて被告人がOに対しT・I襲撃の実行指令を出したと考えたこと、

(6) こうしてO、Yは、直ちにOを指揮者とするT・I襲撃のための部隊編成に入り、任務分担を決める等して準備を進め、O、Yらは、前記のとおり、同年九月一日、T・I襲撃を実行するに至ったこと、

以上の経過にあることが認められる。

右のような経過のうち、被告人は、革労協中央に所属し、内糾派の指導者で、反内糾派対策部門の最高責任者であり、その被告人の指導下に、反内糾派対策部門の事実上の責任者Yや革労協軍事部門のリーダーOらが、反内糾派対策活動の一環として、七月上旬ころから、同派幹部に対し暴力的制裁を加える必要性を感じ、そのための調査活動を開始し、八月初めころ、Sに対し暴力的制裁を加えることにし、その手筈を整えたが、これが失敗したことから、同月上旬ころ、T・Iに対し暴力的制裁を加えることにし、その具体的方法等を話し合ったこと、その後同月一四、五日ころ、OがYに対し「T・Iをやってもいいようになった。」と告げ、O、Yは、直ちに、Oを指揮者とするT・I襲撃部隊の編成に入ったこと等の事実をみると、T・I襲撃について、被告人とO、Yらとの間に共謀があったのではないかとの疑いがないわけではない。

しかし、さらに仔細に検討してみると、T・Iを襲撃し、同人に対し暴力的制裁を加えることは、反内糾派対策活動の一環として、内糾派における組織活動として行なわれるものであり、事前に、あるいは場合により事後に組織決定を経る必要があるにしても、いずれにしろ、その実行は、反内糾派対策部門の最高責任者である被告人が、同部門の実行部隊であるO、Yらに対し、実行を指令することによって、そこで初めて、O、Yらにより実行に移されることになると解されるのであるが、Yの昭和五六年一一月一〇日付、同年一二月八日付、昭和五七年四月二七日付各検面調書によっても、Yは、八月一四、五日ころ、Oから「T・Iをやってもいいようになった。」と告げられ、Yとしては、T・I襲撃につき組織決定がなされ、これを受けて被告人がOに対し、T・I襲撃の実行指令を出したものと予想したということが認められるにすぎないのであって、被告人がOに対し、直接実行指令を発した事実は確認することができない。のみならず、前記の晃和印刷事件の場合には、被告人がYに対し直接に実行を命じたことが認められ、この点において本件とは重大な差異があるうえ、S襲撃に関しては、Yの前記各検面調書からは、被告人の関与の有無、その程度、ことに被告人が実行を指令したこと等は詳らかではないこと等にかんがみると、OがYに対し右のように告げ、Yにおいて、被告人がOに対し実行指令を発したと予想したこと、被告人が反内糾派対策部門の最高責任者であり、同部門の実行部隊であるO、YらによってT・I襲撃が実行されたことから、被告人がOに対し、T・I襲撃の実行を指令したと推認することにも躊躇せざるを得ない。

また、八月上旬ころ、被告人、O、Yらの間で、T・Iに対し暴力的制裁を加えることの気運が高まり、T・I襲撃について、その具体的方法等を話し合ったことが認められるが、しかし、その際の話し合いの具体的内容、被告人の態度、発言内容等については、Yの前記各検面調書からは、これを具体的に確認することはできない。

してみると、以上の如き経過において、被告人が、T・I襲撃につき、Oらに対し、実行指令を発したこと、その他実行を指示する具体的な言動を確認することができない以上、被告人がT・I襲撃につきO、Yらとの間で共謀を遂げたと認めるのは困難であって、被告人に対し共謀共同正犯としての刑責を問うことはできないものといわなければならない。また、八月上旬ころ以降の被告人の具体的な言動が確認できないのであるから、被告人に対し幇助犯としての刑責を問うこともできない。

四 以上のしだいで、本件公訴事実中、被告人に対する昭和五七年六月七日付起訴状記載にかかる前記の各公訴事実については、結局その証明が十分でないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条後段により、主文のとおり無罪の言渡をする。

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